1941年 ドイツ 総統の夜の○夢

バルバロッサ作戦

作戦期間:1941.5.6〜12.15

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 バルバロッサ作戦開始は5月6日と決定される。ポーランド方面に軍を集結させると同時に軍集団を再編。旧バルト三国方面の攻略を目指す北方軍集団、モスクワ攻略を目指す中央軍集団、ウクライナ方面を攻略する南方軍集団の3つにドイツ軍が分割された。また、ハンガリー・ルーマニア軍が南方戦区、一部のイタリア・ギリシア軍が北方・中央軍区に配置されドイツ軍の援護に回った。

 バルバロッサ作戦における陸軍参加兵力は以下のとおりである。

種類/国家ドイツイタリアハンガリールーマニアギリシア
歩兵師団142832426
装甲師団200010
戦闘機1120330
爆撃機4141280

敵戦力は以下の通りである。

種類/国家ソ連
歩兵師団332
装甲師団32
戦闘機15
爆撃機4

 人類史上過去最大の軍事作戦となる「バルバロッサ作戦」は枢軸国陸軍全体で約250万人、ソ連単独で350万人と100万人も差がある。ようやく41年式歩兵装備の改良が始まったドイツ軍とソ連軍の質は拮抗していると思って間違いない。このうちソ連は一部が中央アジア・極東に配置されているが、それでも300万人超が独ソ国境沿いに配置されており、かなりの数の装甲師団も配備されていると考えられる。だが空軍は枢軸国空軍のほぼ全て約1万機でソ連の2000機を圧倒している。空軍がバルバロッサ作戦の成否のカギを握るのだ。

開戦

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 5月6日0時、ドイツはソ連に宣戦布告した。ドイツ軍は日の出の午前4時をもって各地点より侵攻を開始した。だが、開戦直後からドイツはソ連の工業力を思い知らされる。

ブレストリトウスク遭遇戦

 ドイツ中央軍集団37個師団はルブリンよりブレストリトウスクに侵攻を開始した。だが、待ち受けるソ連軍6個師団は戦車3自動車3の機甲軍であった。ソ連軍は決して大粛清で組織的統制を失ってはおらず、ドイツが目指す、理想的な軍編成を既に完成させていた。だが、ドイツ軍は数を頼りにこの機甲軍を撃破することに成功。第31軍団(戦車3)が占領に成功した。だが、その後もソ連軍の機甲部隊が各地で確認されその度に激戦が起こることになる。

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南方戦区

 5月8日までに南方軍集団はリヴォフに進出。南方軍集団とハンガリー・ルーマニア軍との共同作戦によりストリャージでソ連軍6個師団(戦車3歩兵3)の殲滅に成功した。

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 その後も南方軍集団所属の機甲軍の活躍によってコヴェルでソ連軍4個師団(歩兵4)を殲滅した(5.18)。だが、アントネスク元帥指揮の下モギリョフポドルスキに侵攻したドイツ・ルーマニア軍40個師団はソ連軍14個師団(戦車4自動車4歩兵6)の頑強な抵抗を受け敗退。態勢を崩された所をキエフから襲来したソ連軍35個師団に反撃されヴィンニツヤを失う(5.26)。

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 だが、ソ連軍の作戦は稚拙そのものであった。大規模な軍の移動により一瞬キエフの守備兵が皆無となった隙を突き、マンシュタイン中将指揮の第6軍団以下6個師団がキエフを電撃的に占領、南方戦区の根拠地とした(6.6)。

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 キエフの陥落によってソ連軍は戦略的撤退を開始。キエフより東方に軍を移動させたため、手薄となったヴィンニツヤを再び占領した。だが、ようやく立ち直ったかに見えたドイツ軍に立ちはだかったのはキエフ一帯を流れるドニエプル川であった。工兵を多く配備していないドイツ軍は渡河作戦を取れないため、攻勢点を一点に集中しなければ突破できなかった。南方軍集団はキエフから東に進むことを決定、クルスクを直接攻撃することを決定した。

コノトプの戦い

 補給が完了したドイツ軍は7月からキエフを起点に東進を再開。手始めにドニエプル川対岸の都市プリルキ・チェルニゴフを占領、渡河に成功した。ウクライナ地方の大都市クルスクを陥落させるため、ドイツ軍精鋭機甲軍11個師団(司令部1戦車6自動車4)がコノトプへ進出、クルスクまで残り50kmの地点まで迫った(7.15)。
 だが、ソ連軍はドイツ軍突出部をわざと作った上で、チェルニゴフ・プリルキに大規模攻勢を開始した。チェルニゴフにはドイツ・ハンガリー軍10個師団が防衛に当たっていたが、ゴメリのソ連軍32個師団(戦車9自動車6歩兵15民兵2)の猛攻が開始され、2日にわたり激戦が繰り広げられた。だが衆寡敵せず敗退、ソ連軍はチェルニゴフを占領した(7.19)。この前々日にはプリルキもソ連軍の手に落ちておりコノトプのドイツ軍は完全にソ連軍の包囲下となった。
 キエフのドイツ軍は包囲されている機甲軍救援のためプリルキ・チェルニゴフの奪還に向かった。だがソ連軍はその時既にコノトプのドイツ軍に攻撃を開始していた。急激な進撃により既に燃料・弾薬が尽きていたドイツ軍は翌日ソ連軍に降伏、ドイツ軍初の敗北はあまりに痛いものとなった。

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 ドイツ軍がプリルキを占領したのは28日と遅きに失した。プリルキに進出したドイツ軍は勢いに乗るソ連軍の攻撃を受け、またもや敗退。コノトプの戦いによって機動兵力を失った南方軍集団は10月のルーマニア軍大攻勢まで一切の作戦を中止せざるを得なくなった。

オデッサ攻略作戦「秋の訪れ」

 北方軍集団の快進撃が続いたせいで北方で大きな突出部ができた。これを解消するため、中央・南方軍集団に再度進撃命令が下された。南方軍集団はハンガリー・ルーマニア軍と共同でキエフ南方のチェルカッスィに攻撃を開始した。73個師団による集中攻撃によってソ連軍の防衛線を突破したドイツ軍はバルタに進出した。ソ連軍は戦車師団8個をもって防衛にあたったが枢軸国軍の約3分の1、90個師団約100万人の攻撃にたまらず敗走した(10.28)。

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 ドイツ軍による包囲を恐れたソ連軍はオデッサの放棄を決定、東方へ退却を開始した。ルーマニア軍はわずかな抵抗を排除してオデッサの攻略に成功(11.10)、オデッサ周辺のソ連軍撃退に動き出した。クリヴォイログでソ連軍機甲軍(戦車6自動車8)を撃破し(12.10)、オデッサ東のヘルソンも陥落した(12.26)。

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 12月15日、北方・中央軍集団が攻勢限界点を迎えたところでバルバロッサ作戦は中止された。だが、陸軍参謀本部は比較的天候が良好な南方戦区での追加攻勢を計画。42年1月よりロストク・クリミア半島攻略を目指す「冬の嵐」作戦が始まることとなる。

中央戦区

 中央戦区には他より多くの軍が配置され、イタリア・ギリシア軍もここに配備された。ブレストリトウスクを攻略した中央軍集団は5月18日、ビヤウィストクでソ連機甲軍(戦車4自動車4)を包囲・殲滅しソ連軍の出鼻をくじいた。

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 5月末までにモギリョフ西方のボブライスクまで進出したドイツ軍は、中央部攻略の起点としてリダ、モギリョフどちらかを落とす必要があった。この両拠点には航空基地が存在しており、枢軸国空軍の前線基地が更なる進撃に不可欠だったからだ。中央軍集団司令官ルントシュテット元帥は戦線の維持が簡単なリダの攻略を優先した。だが、このリダを巡って独ソが火花を散らすこととなる。

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リダ攻防戦

 ドイツ軍はリダを直接攻撃するか、それともリダを包囲するか。2つの攻撃オプションがあった。だが、北方軍集団がリトアニア方面で苦戦中のため包囲作戦はソ連軍による逆包囲を招く可能性が高いと判断された。5月28日、バラノヴィチェ・グロドノよりドイツ軍が進撃を開始した。リダのソ連軍は脆弱な防衛線しか築いておらず6月1日に占領に成功した。
 一方ソ連軍はリガ奪回のためミンスクに軍を集結させた。補給が完了したソ連軍は6月6日、リダ奪回作戦を発動、3方面から同時に攻撃を開始した。ドイツ軍はリダに駐留中の空軍を退避させ、防衛戦を展開するも、ソ連軍52個師団に対しドイツ軍は補給が不完全な18個師団と数と質でソ連軍に劣っていた。必死の防戦も空しく、リダは10日にソ連軍に奪回される。ドイツ軍はこの戦いだけで1万人以上の死傷者を出した。

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 だが、6月に入り北方軍集団が快進撃を続けたことでソ連軍は兵力をエストニアに向けざるを得なかった。ドイツ軍はこの機に乗じてリダに攻撃を開始し、再び占領に成功した。しかし補給が続かないドイツ軍に対しソ連軍は再奪回作戦を開始。またもやソ連軍にリダを奪われる(7.1)。
 だが、北方軍集団のエストニア攻略が予想よりも早く進んでいることからドイツ軍に包囲される可能性が高まり、ソ連軍はリダより撤退を開始した。7月4日、ミンスクを落としたドイツ軍は7日にリガを再占領。以後、この地の支配を確定させた中央軍集団は強力な航空支援の下モスクワを目指すこととなる。

モギリョフ攻防戦

 リダを落とした中央軍集団はモスクワへ進路を取る。7月15日、オルシャ・モギリョフへ同時侵攻を開始した。

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 オルシャ・モギリョフ共に22日まで占領したが、この頃南方戦区でコノトプの戦いが発生、敗北を喫しており中央軍集団は一部部隊をドニエプル川に沿って守備させ、戦線の破綻を防がざるを得なかった。そのため、モスクワへの道となるスモレンスクの攻略は遅々として進まなかった。
 8月9日、補給の圧迫で極限の状態であったドイツ軍に対し、ソ連軍はモギリョフへ攻撃を開始。ソ連軍20個師団とドイツ軍25個師団が激突した。だが物資が欠乏しているドイツ軍はソ連軍の攻撃に耐え切れず敗走、モギリョフがソ連軍に奪われた。

 8月に入ると補給を十分受け取ったドイツ軍が再びモギリョフに進撃を開始した。ソ連軍は北方戦区に兵を割いており、ドイツ軍の集中攻撃を支えきれず、8月26日にドイツ軍が占領。はずみをつけたドイツ軍は9月15日よりスモレンスク攻略を開始。ドイツ空軍によりソ連軍の補給線・指揮系統が寸断されていたためあっけなくソ連軍は敗退した。これによりモギリョフに対する敵の脅威はほぼ無くなった。

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タイフーン作戦

 陸軍参謀本部は総統の意向を強く受けたモスクワ攻略作戦「タイフーン作戦」を発動した。だが、補給の圧迫はかなりの所まできており(ゲーム上でいうなら1日の指揮回復が+0.5以下)、一足早い冬将軍の到来によりドイツ軍の進撃速度は極端に遅くなる。中央軍集団司令官ルントシュテット元帥は作戦遂行は不可能と参謀本部に具申、総統と対立の末解任され、後任として陸軍総司令官フリッチュ元帥が就いた。フリッチュは北方軍集団の進撃によりモスクワ方面の防衛線が弱くなることを期待したが、同じく冬将軍に襲われていた北方軍集団もほぼ進撃を停止していた。

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 落胆するフリッチュに対し総統は進撃を厳命した。ヴィプステクを落とした中央軍集団は11月15日ヴェリキエルキのソ連防衛線を突破、トロペツへ攻撃を開始した。寒波により厳しい戦いを続けるも、4倍の兵力差で押し切り占領に成功した。12月14日、更に厳しくなった寒波が吹き荒れるなか、遂にモスクワ西部・ルジェフに進撃を開始した。ソ連軍14個師団に対しドイツ軍は54個師団、5倍の兵力で攻撃を開始したがあまりの寒さに戦車は止まり、小銃が使用不可となるなど絶望的な戦闘を強いられる。
 翌日も攻撃は続けられたが、鉄壁の守備を誇るソ連軍にドイツ軍は続々と戦闘不能状態に追い込まれ、遂に形勢が逆転する。フリッチュ元帥はこれ以上の進撃は不可能と判断、15日をもってタイフーン作戦・バルバロッサ作戦の中止を決定した。総統もこの判断をやむなく了承、ドイツ軍はモスクワを落とすことができないまま、極寒の冬を迎えることとなる。

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北方戦区

 北方軍集団は5月18日までにカナウスの占領に成功したいた。だがソ連軍はバルト方面に大軍を配備しており、5月23日にメーメルを占領されるなど劣勢が続いた。北方軍集団司令官フリック元帥はソ連軍の包囲殲滅を計画、危機的な状況の打破を狙った。

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赤い森作戦

 北方軍集団はフリッチュ元帥(後に中央軍集団司令官に転任)の指揮の下、シャウリャイを陥落させた(5.30)。連動してドイツ軍がメーメルの奪還に成功したことでソ連軍はドイツ軍の包囲作戦を察知、シャウリャイ奪還に24個師団を動員したがドイツ戦車隊の活躍により防衛に成功。逆にドイツ軍の反撃を許しイェルガヴァを落とし、マジルベでソ連軍11個師団の包囲に成功した。
 ソ連軍はイェルガヴァに猛攻を仕掛けドイツ軍を敗退させることに成功していたが、イェルガヴァ制圧前にマジルベのソ連軍がドイツ軍の攻撃を受け降伏していた。少なからぬ戦力を失ったソ連軍はこれ以降守勢に回る。

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 空軍の支援を受けイェルガヴァを再占領、イェカピルスを占領したドイツ軍はリガに迫る。ソ連軍は大した防衛も出来ないままヒムラー大将指揮の第8軍にリガを占領される(7.9)。15日にダウガウピルスも落とし、ソ連軍の混乱は極限に達した。

エストニア解放

 勢いに乗った中央軍集団は所属する機甲軍の速度を生かし、タリン半島でのソ連軍の包囲を図った。機甲軍は順調にタリン半島に進撃を開始した。対するソ連軍はドイツ軍による包囲網形成を阻止するためグルベネに攻撃を開始、ドイツ軍の逆包囲を狙った。8月5日にソ連軍はグルベネを占領したが、その頃には既に包囲網が完成しており、タリンでソ連軍11個師団が包囲軍の集中攻撃を受けていた。結局タリンのソ連軍は7日にドイツ軍に降伏、またもや救援に失敗したソ連軍はグルベネからオポシュカに撤退した。

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フィンランド参戦

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 ソ連軍の根拠地オポシュカも8月15日に陥落し、ソ連軍は撤退を繰り返す。そんなソ連の苦境を見たフィンランドは遂に枢軸側で参戦、冬戦争で奪われた領土の奪回を目指した。フィンランド軍の援護もあり、SS第2装甲師団がレニングラードを占領、共同でヴィープリのソ連軍を殲滅することに成功した(9.19)。

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 レニングラード北部の脅威が無くなったため、ドイツ軍は新たな包囲作戦を計画。ルガを落としたドイツ軍はポルコフへ進撃、ドイツ機甲軍の活躍によりこれを占領した(11.1)ことで、グドフのソ連軍13個師団の包囲に成功、殲滅した(11.4)。

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 だが、この頃から秋雨と寒波がドイツ軍を襲うようになり、路面の泥濘、氷点下の気候による部隊稼働率の低下により進撃速度の鈍化に更に拍車がかかった。それでも中央軍集団と共同でスタラヤを落とし、気候の回復を待ってノヴゴロドへ進撃した。偶然にも晴天が続いたことでドイツ軍はようやく行動の自由を得た。
 勢いを盛り返したドイツ軍の攻撃によりソ連軍の防衛線は崩壊、12月10日にノヴゴロド占領に成功した。だが、中央軍集団のルジェフ攻略失敗によりバルバロッサ作戦が中止されたことで北方軍集団もこれ以上の進撃を停止した。

統括

 今作戦の最大目標であったモスクワ攻略に失敗したことで、ソ連軍に態勢の立て直しの時間を与えてしまった。それに加え、ゲーム上でいう石油の備蓄が、開戦時は109kあったが、作戦中止時には68kにまで減少した。ルーマニアから大量の石油を提供してもらっても一日の収支は-150という状況なのだ。

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 このペースで行くと43年までには石油の備蓄は底を尽いてしまうだろう。石油がなければドイツが誇る戦車はただの鉄の箱と化し、空軍も動かなくなる。ドイツ首脳部はモスクワ攻略か、カスピ海沿岸の油田地帯確保のどちらか2択を選択することを迫られた。だが、首脳部が下した決定はそのどちらもであった。全力でモスクワを落とし、それに加えて快進撃を続ける南方軍集団による油田地帯確保を目指したのだ。この決定が間違っているかどうかは42年に分かるだろう。

バルバロッサ作戦 戦略的敗北

損害ドイツソ連
戦死者約30万人(人的資源-400)約70万人
戦傷者約70万人約150万人
捕虜約9万人約80万人
戦車損害約600輌約1300輌
航空機損害約800機(4飛行隊壊滅)約1000機

あとがき

 モスクワ落とすことができませんでした。史実と違い、レニングラードは落とせた代わりに南方戦線が全く進んでいません。これはなぜかというと、南方戦線にソ連軍が戦車と自動車化歩兵を大量に配置していたのですが、「非常に難しい」の指揮統制回復と移動速度補正がバシバシ効きました。とにかく敵の動きが速いこと、そして自軍の指揮回復が無茶苦茶遅いことですね。+1.00/dayはマシなほうで、攻勢かけても+2.00に届くかどうかです。今まで見た中での最低記録+0.22でしたね。なので、戦闘・行軍などで指揮が1/90まで落ち込んだ場合、MAXまで回復するのに単純計算で89日間、約3ヶ月も費やさなくてはならないのです。だから、プロヴィンスを制圧した直後の反撃でいとも簡単にソ連軍に撃退されてしまうんです。でも史実でも補給にはだいぶ苦労したでしょうし、そういう意味ではリアルなのかなと思います。おかげで後半のプレイではコツもつかめてきました。でもその頃には冬将軍が来てましたが(笑)

 あと、SS見てもらえば分かると思いますがホントに戦車・自動車化歩兵が多いです。撃破してもまた新たに生産されるんで大変です。こんなところは史実に似なくていいよ(笑)


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Last-modified: 2008-02-12 (火) 00:00:00 (3541d)