ドイツ 総統の夜の○夢

フランス反攻作戦「オレンジ計画」9.18〜11.7

9.18時点のフランス軍侵攻ライン

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 フランクフルト、ニュルンベルク、レーゲンスブルクの線まで侵攻しているフランス軍を撃退することが目的である。意図的にフランス軍を突出させ、敵防衛線が延びきったところで、フランクフルト、ニュルンベルクを奪還しフランス軍の退路を遮断する。部隊の集結にはなお2週間前後かかると思われ、その場合はフランス軍はチェコにまで到達すると予想される。そのため、ハンガリー軍を主とした防衛線を張り、ベルリン含む、ブランデンブルク地方への侵攻を阻止する。

 現在のところイギリス陸軍の存在は確認されていないが、制空権は完全に連合国側にあり、空軍の作戦行動は慎重を要する。

奪還

 フランス軍は大戦勃発と同時にドイツ国境に殺到した。装甲師団を先頭に防衛線を突破しわずか2週間あまりで現在の地点まで進出した。ドイツ軍のお株を奪う、見事な「電撃戦」だった。だが、あまりにもうまく行き過ぎたためか、装甲師団は暴走気味となり、歩兵との連携が取れなくなっていた。開戦初期はドイツ軍の抵抗がなかったため問題はなかったが、ドイツがポーランドを片付けると次第に攻勢は途絶していく。

フランクフルト奪還戦 1939.9.18〜9.24

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 オレンジ計画の発動により、カッセルで態勢を整えなおしたヒムラー大将揮下の第18軍及び第16軍はフランクフルト奪還のため反攻を開始する。電撃的な領土拡大により軍の移動が追いつかないフランス軍は、わずか1個師団でフランクフルトを守備していた。第18軍は瞬く間に敵を打ち破り、24日にフランクフルトに入城、奪還に成功した。

ニュルンベルク攻防戦 1939.9.21〜10.5

9.21

 反攻作戦最大の戦いとなったこの戦いでは、南方軍集団参謀長カウピシュ大将を司令官とする第14軍(司令部1歩兵8)を主力とする22個師団が21日から攻撃を開始。ドイツ空軍の猛爆撃もあり敵7個師団は防戦空しく敗北、シュトゥットガルトへ撤退する。

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9.26

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 ニュルンベルクに先着、制圧に成功した第9軍団が、チェコまで進出したフランス軍の反撃を受け撃退されてしまう。翌日にはフランス機甲師団によってニュルンベルクは再び占領されてしまう。この頃になってようやくフランス軍は危機的な事態を認識、ニュルンベルク攻防戦は遂に両軍主力の衝突へと発展する。

9.29

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 ドイツ第14軍他、14個師団がニュルンベルクの再制圧に成功する。だが、間髪入れずにフランス軍がチェコ、シュトゥットガルトの南北より25個師団をもって攻勢をかける。ポーランド戦で満身創痍のドイツ軍にこの攻勢を耐えられる力は無く、またもやニュルンベルクはフランス軍の手に落ちる。

10.2

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 ポーランドよりB軍集団及び南方軍集団主力がドレスデンに到着、13時からニュルンベルクに対し装甲集団含む22個師団で攻撃を開始する。同じく連戦が続くフランス軍は装甲師団3個の活躍も、この再度の攻撃によって打ち破られる。5日、クライスト中将の第29軍団がニュルンベルクの奪還に成功した。
 陽動作戦として実施されたシュトゥットガルト、チェコ・ストラコニツェの奪還にも同じく成功し、フランス軍はチェコ西部、レーゲンスブルクでそれぞれ孤立することとなった。これ以降、フランス軍は完全に守勢に回ることとなる。

ウースチーの戦い 1939.10.9〜10.13

 チェコ・プルゼニの陥落によってウースチーで包囲されたフランス軍機甲師団を殲滅するため、ドイツ軍は南方軍所属の山岳兵を主力としてA軍集団の指揮の下、攻撃を開始する。物資・燃料の不足にあえぐフランス軍にこの攻撃を耐え切れるはずなどなく、翌10日に降伏。13日に奪還に成功、フランス軍を完全にチェコより駆逐した。

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フライブルク攻防戦 1939.10.14〜10.15

 後顧の憂いをなくしたドイツ軍は、オーストリア方面のフランス軍を包囲殲滅を計画。フライブルクを攻撃し、フランス本国との退路を断つことで、敵の殲滅を図ろうとした。第18軍を主力とした18個師団はフライブルクの奪取に向け攻撃を開始した。

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 フランス軍はフライブルクに機甲師団3個を配置するなど万全の防衛体制を敷いていたが、ドイツ空軍機のほぼ全て、2300機を投入しての大爆撃により指揮系統が壊滅、ほどなくしてミュルーズへ撤退を開始した。翌日11:00、モーデル少将の第1装甲師団ら機甲師団4個がフライブルクを奪還した。
 退路を断たれたフランス・オーストリア方面軍はすぐさまフライブルクに攻勢を仕掛けるも、ミュンヘンからドイツ・ハンガリー連合軍に側面を突かれ敗北、レヒに撤退途中でドイツ空軍機の空襲を受け、部隊の大半が大損害を出した。

フランス軍崩壊

マジノ線突破戦「フリッチュ・プラン」 1939.10.16〜10.19

 ほぼ全てのフランス軍を撃退したドイツ軍は、敵の防衛が不完全なうちに攻撃を開始することを決定した。その場合、マジノ線を突破せざるを得ず、マンシュタイン少将は迂回路からの攻撃を提案したが、その場合には少なくともベルギーを敵に回してしまうため、戦略的見地からこれを下策とした。陸軍参謀総長フリッチュ大将は、猛爆撃によりマジノ線の脅威を低減させた上で正面突破を行うことを決断、総統の同意を得ることにも成功した。

10.16

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 ドイツ空軍による猛爆撃の開始と共に、ミュルーズ、ストラスブールのマジノ線への攻撃が開始された。ミュルーズに立て篭もるフランス軍2個師団はドイツ軍最精鋭部隊である13個もの装甲集団と、ストラスブールではフランス軍3個師団に対しドイツ軍は37個師団を投入した。独仏の命運を掛けた壮絶な攻防が始まった。フランス軍はマジノ線要塞に立て篭もりドイツ軍の攻勢をシャットアウトすることに成功したが、敵の攻勢意図を挫くまでには至らなかった。ドイツ軍は、昼夜分かたずマジノ線の爆撃を続けた。ミュルーズ・ストラスブールではドイツ空軍とフランス・イギリス空軍とで激しい空中戦が行われた。爆撃機が多いドイツ空軍は空中戦では分が悪かったものの、数の多さでこれをカバーした。

10.17

 さすがのマジノ線要塞も崩壊の兆しが見え始めた。絶えず続く爆撃に支えられ、ドイツ軍は砲撃によって要塞破壊を試みた。フランス軍も反撃するものの制空権はややドイツ側が握っており、効果的な防衛は不可能であった。また、ドイツ空軍の補給線攻撃により継戦能力が格段に低下していく。

10.18

 さらに激しさを増すドイツ軍の砲爆撃により、遂にミュルーズ防衛隊はマジノ線放棄を決定、ディジョンへの撤退を開始した。ドイツ軍はすぐさまマジノ線を突破、SS第2装甲師団がミュルーズ市内の制圧に成功した。

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 ストラスブールでも混成軍集団がマジノ線突破に成功。翌日12:00、第19軍団が市内を制圧。マジノ線は完全にドイツ軍の手に落ちた。この戦いにより有効な防衛手段を取れなくなったフランス軍は各地で敗北を重ねることとなる。

パリ攻防戦 1939.10.27〜11.1

 マジノ線突破以降は、ドイツが誇る装甲師団の独壇場となった。25日、第1装甲師団はヴィシーを占領。トロアもグデーリアン少将指揮の第6装甲師団他、5個師団により電撃的に制圧される。陸軍参謀本部は、この機動力を持って敵首都パリの攻略を決定。南方軍集団に転属となった第2装甲師団は新師団長シュヴェッペンブルク少将の指揮の下、トロアのドイツ軍と共同でパリ攻略を開始した。
 パリ防衛のため、フランス軍は急遽編成した民兵師団で対抗したが、にわか仕込の兵隊相手に血みどろの戦いを続けてきた百戦錬磨の機甲部隊では戦闘にすらならなかった。民兵は散り散りになって退却。28日、第2装甲師団は遂にパリに入城した。

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 政府をマルセイユに移したダラディエ政権はすぐさまパリの奪還を命じた。アミアンのフランス軍2個師団はパリに向かい攻撃を開始した。だが、セーヌ川を挟んでの攻撃は無謀であった。シュヴェッペンブルク少将は敵の攻勢点を的確に撃滅、反撃に転じた。戦闘のイニシアチブを取られたフランス軍は算を乱して撤退。パリの支配は確定された。

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トロア防衛戦 1939.10.28〜11.1

 フランス軍はパリ陥落の報にパニック状態に陥った。だが、すぐさま新たな反攻作戦を計画した。突出しているドイツ装甲師団の退路を断つため、トロア、ディジョンを奪還するというものだった。北部のフランス軍11個師団はトロアのドイツ軍装甲師団3個に対し反攻を開始した。

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 だが、フランス軍はパリ反攻時と同じように河川により進撃を阻まれてしまう。防衛側総司令官のマンシュタイン少将はこれを反撃の好機と捉え、偽装の退却を行い敵の半分が河川を渡りきったところを反転攻撃した。マンシュタインの見事な指揮にフランス軍はトロアの奪還を断念、撤退を開始した。

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イタリア参戦とヴィシーフランス成立

11.2

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 イタリアが急遽枢軸側で参戦。これにより南フランスが直接的な脅威を受けることとなり、フランス軍は更なる防衛線の縮小を迫られる。翌日にはマジノ線が残るメスが陥落、コンピエーニュ、アミアンもドイツ装甲師団の攻撃を受け陥落した。

11.5

 南仏からイタリア軍の攻撃を受け、イギリス軍の援軍も期待できない中、これ以上の流血を避けたいフランス政府はペタン元帥に首相職を委譲し、ドイツとフランスは休戦交渉に入った。

11.7

 コンピエーニュにおいて休戦協定が結ばれ、フランス北部はドイツ、南部をヴィシー政権が統治することで合意された。9月からの長く苦しい戦いに一旦終止符が打たれた瞬間だった。

フランス反攻作戦「オレンジ計画」 戦略的勝利


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Last-modified: 2008-02-12 (火) 00:00:00 (3541d)