1942年 ドイツ 総統の夜の○夢

青作戦

作戦期間:1942.5.3〜10.18

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 ロシア方面の雪解け、泥濘の解消によりドイツ軍の新たな攻勢が開始された。予想されていたソ連軍の反撃が小規模だったことが幸いし、各方面のドイツ軍は息を吹き返していた。だが、ソ連首脳部は既にモスクワから東に離れたゴーリキーに移動しており、モスクワの戦略的価値は下がっていた。そのためOKHはドニエプル川の渡河を青作戦の主目的とした。
 5月1日に橋頭堡プリルキがソ連の手に落ちていたことから渡河は難しいという声も複数の将軍から出ていたが、ここを越えなければ更なる侵攻はかなり制限されたものとなってしまう。つまり、中央戦区に配置されている枢軸軍全てが遊軍となってしまうのだ。今作戦の最大目標である敵首都・スターリングラード・バクーの占領にはかなりの数の軍が必要である。

種類/国家ドイツイタリアハンガリールーマニアギリシア
歩兵師団1782140516
装甲師団201010
戦闘機1015650
爆撃機3881280

敵戦力は以下の通りである。

種類/国家ソ連
歩兵師団225
装甲師団24
戦闘機10
爆撃機2

 バルバロッサ作戦の最大目標であったモスクワは、既に戦略的にそれほど重要ではなくなっていたが、それでもソ連はここの陥落が及ぼす影響を鑑み、モスクワ周辺に大軍を配置していた。ドニエプル川を越えられないドイツ軍の失態を間近に見て、ドイツ軍はここを越えることはないとソ連首脳部は考えていた。むしろ、フィンランド軍と協調して北部より迂回してシベリアへ進撃すると予想していた。そのため、ドニエプル川沿いの部隊の一部をモスクワに配置換えしていたのだが、この判断がソ連の命取りとなった。5月3日、ドイツ軍は青作戦を発動、各方面から進撃を開始した。今作戦でもしソ連を屈服させなければ石油の備蓄は底を尽く。それはドイツの敗北を意味するのだ。

北方戦区

 青作戦発動により北方軍集団はルジェフ・デミャンスクを落とし、5月20日にはフィンランド軍との共同作戦によりティクヴィン・ヴィテグラも占領した。大軍を配置しているとはいえソ連軍は既にバルバロッサ作戦でかなりの戦力を消耗しており、その抵抗は些細なものであった。ソ連軍は各地で撤退を続けるが、その一方で反撃も計画していた。

6.1

 ソ連軍はスカンジナビア半島との連絡路を絶たれることを恐れ、ドイツ占領下ヴィテグラに攻撃を開始した。ドイツ軍はここにヒムラー大将指揮の14個師団で防衛していたがソ連軍は地の利を活かし、誘引戦術によりドイツ軍を退けることに成功した。また、カリーニンでもソ連軍は反撃を開始し、ドイツ軍のモスクワ攻略を掣肘した。

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モジャイスク攻防戦 1942.6.9〜7.20

6.9

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 ソ連軍はモスクワ防衛作戦の一環として、モスクワ南部モジャイスクの奪還を画策した。6月9日、ソ連軍は22個師団をモジャイスクに投入、攻撃を開始した。対するドイツ軍は11個師団で防衛するも、集中攻撃により自由な戦闘ができないドイツ軍は次第にソ連軍に追い詰められていった。

6.11

 ドイツ軍はモジャイスクの放棄を決定、撤退を開始した。15日にはモジャイスクはソ連軍の支配下となり、モスクワへの玄関はルジェフただひとつとなった。チェレポヴェッツを占領し、なんとかソ連軍を牽制したいドイツ軍とモスクワ防衛を第一とするソ連軍の熾烈な戦闘が今後も繰り返される。

7.5

 態勢を立て直したドイツ軍はモジャイスクに対し攻撃を開始した。中央戦区のドイツ軍がドニエプル川を突破したことで、ソ連軍は恐慌状態に陥っていた。ドイツ軍はそこに70個師団を投入し数で圧倒、占領した。モスクワ周辺での攻防戦でソ連軍は善戦したものの、それが中央戦区の破綻、そして全戦線の破綻へと繋がっていった形となった。

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モスクワ攻略 1942.7.22〜7.26

 モジャイスク陥落、そしてノギンスクもドイツ軍の支配下に入ったことで、ドイツ軍はここにモスクワ攻略を決定、一連の戦闘にケリを付けることとした。ルジェフ・モジャイスク・ノギンスクより70個師団がモスクワへ突入、ソ連軍は24個師団を持って防衛した。43年式の最新装備のドイツ軍に対し、ソ連軍は39年式が大半を占める旧式装備で固めており、数と質でドイツ軍に圧倒された。ドイツ軍はモスクワに1000機の航空機を投入し、徹底的な爆撃によってソ連軍を壊滅に追い込む。ソ連軍はこの中でもドイツ軍に反撃を実施、なんとか地の利を活かそうと奮闘した。

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 だが、戦闘開始から1日たった23日、ソ連軍はモスクワを放棄し撤退を開始した。ドイツ軍がモスクワに入城したのは7月26日であった。モスクワ陥落のニュースは世界中を駆け巡り、枢軸国は沸きに沸いた。対する連合国はまるで敗戦したかのような落胆ムードに包まれた。そしてそれ以上にソ連・スターリンへの影響は大であり、スターリンの指導力を問う声がソ連内部で大きくなっていく。これが後のスターリン失脚の引き金ともなった。

8.15

 カリーニンを占領したドイツ軍はペジェーツクでソ連軍の殲滅に成功、この1週間後にはルイビンスクも落とし、一連のモスクワ攻防戦はドイツ軍の勝利として終結した。北方戦区では掃討戦に移行し、中央戦区・フィンランドの援護に回ることとなった。

中央戦区

5.20

 膠着状態にあった中央戦区では、ドニエプル川越えが厳命されていた。ドイツ軍はこの川越えを迂回によって達成しようと計画した。5月20日にヴィヤズマを攻略し、そこからドニエプル川対岸のロスラフルに攻撃を開始した。ソ連軍は貧弱な装備と、たった7個師団でこの地を守っていた。鎧袖一触、これを撃破したドイツ軍はこのチャンスを見逃さず、各地で川越えを行った。

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6.6

 ロスラフルを占領したドイツ軍はモギリョフからロガチェフに渡河作戦を開始した。ロスラフルのドイツ軍の援護もあって、この渡河作戦は成功。また、陽動としてキエフのドイツ軍がプリルキに再び渡河を開始、ポルタヴァでも合わせて渡河が開始された。ソ連軍はこの一連の攻勢になす術なく敗退していった。かなりの軍を北方に割かれていたため、有効な反撃すらも行えなかったのだ。

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6.16

 残る対岸のゴメリ・チェルニゴフもドイツ軍が占領し、中央戦区はドニエプル川越えを完全に達成した。その後は前年の悲劇の地・コノトプを奪還し、7月11日にクルスクを占領した。ハリコフも陥落し、中央戦区は完全にドイツ軍が主導権を握り、以降はほとんど抵抗を受けずに作戦終了まで東進を続けることとなる。

10.6

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 ドイツ軍はソ連の暫定首都ナベレジヌイエチェルヌイを占領した。これによりエネルギー400k・鉄鋼100k・希少資源40k・石油18kを獲得した。首都陥落によりソ連内部では講和派が多数を占め、急速に和平交渉が進められることとなった。

南方戦区

6.7

 南方戦区では冬の嵐作戦の失敗により消極的な作戦行動が取られていた。攻撃が始まったのは作戦発動から1ヵ月後の6月となった。キエフの中央軍集団がプリルキ攻撃を開始したのに連動して南方軍集団はポルタヴァへ攻撃を開始した。また、クリミア半島封鎖を目指し、メリトポリへも進撃した。

8.14

 中央戦区のドニエプル川越えにより勢いづいた南方軍集団は各地でソ連軍を打ち破った。ロストフ・ハリコフの両拠点を7月までに落とし、一路、スターリングラードへ一直線に進撃した。ソ連軍は空軍によりほぼ殲滅され、8月14日に一切抵抗を受けずにスターリングラードを占領した。南方戦区のソ連軍本隊はクリミア半島に追い込まれた。

第一次セヴァストポリ要塞攻略戦 1942.7.21〜9.16

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 セヴァストポリ要塞に立て篭もったソ連軍13個師団を包囲したルーマニア軍が9月16日、要塞へ攻撃を開始した。補給物資にあえぐソ連軍は、T-34などの最新戦車の真価を活かすことができず降伏。ソ連軍は戦車100輌が撃破、600輌が捕獲された。クリミア半島はルーマニアの支配下となった。

10.7

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 10月7日、ドイツ軍はイラク軍の支援を受けバクーの占領に成功した。これにより一大石油産出地帯をその手中に手に入れることとなった。ソ連ではこれ以上の抗戦を不可能と判断した一部政治家・将校によってスターリンを監禁状態にし、スターリンに直筆の和平親書を書かせた。この書簡は10月16日に総統の元へと送られた。総統はこの和平条件に満足し、講和を決断した。ここに史上最大の戦闘、独ソ戦は終結した。ソ連から割譲された領土ではウクライナやベルラーシなど、新たな国が独立、ウラルにおける新体制がスタートした。

青作戦 戦略的勝利

損害ドイツソ連
戦死者約8万人約40万人
戦傷者約30万人約100万人
捕虜約1万人約50万人
戦車損害約150輌約2000輌
航空機損害約400機約600機

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Last-modified: 2008-02-12 (火) 00:00:00 (3541d)