ジーク・ハイル!

覇王 1940年

タイタン発動

軍備の配備が遅れたことによりタイタンは2月1日の開始となった。主力はロンメル及びグーデリアンの率いる戦車軍および付随する自動車化師団である。
初動はドイツ軍の圧倒的な軍事力により国境線の突破は早かったがユーゴスラビアの抗戦により進撃は遅滞した。また地形がドイツ軍に厳しくその点から進撃が遅れたという事情もあったがヒトラーが宣言したとおり5週間で作戦を完遂しユーゴスラビアという国家は地図から消え去った。

3月にタイタンが終了したためギリシア侵攻作戦の「スパルタ」発動は見送られることとなった。

対ソ作戦「ジークフリート」

「ハルダー君、ソ連侵攻作戦である「ジークフリート」を説明したまえ」
「我が軍の特徴である戦車軍を前面に進撃いたします。北方、中央、南方の各軍にマインシュタイン、グーデリアン、ロンメル将軍の戦車軍を配備しこれを主攻といたします。1940年の終わりまでに北方戦線においてはレニングラードを、中央戦線においてはモスクワを、南方戦線においてはクリミア半島およびハリコフの攻略を目指します。なお発令までは5週間から7週間の準備が必要です。作戦開始日は総統閣下の誕生日である4月20日とすることが我が軍の士気も高まりよろしいかと思われます。」
「その作戦を受理する。ソ連は腐った建物だ。ドアを蹴飛ばせば必ず崩れる。遅滞なく準備を進めるように」

4月19日 計ったかのようにソ連から不可侵条約の破棄が通告されていた。独ソ国境情には両軍あわせて500万の兵員が集められ世界は固唾を呑んでその行方を注視した。

翌日4時30分全戦線で攻勢が開始される。
「進撃。進撃。命令はそれだけだ冬が来る前にソ連を壊滅せよ」
グーデリアンが下した命令が示すように戦車軍は一気に戦線を突破。開戦一ヶ月でドイツ軍は北方ではバルト三国の領土だった地域を占領。中央においてはミンスクの前面まで進撃。南方においてはキエフの臨む位置まで進撃した。

ソ連軍の混乱は多数の捕虜を出すこととなる。北方戦区においては20個師団に上る大軍がラトビアにおいて包囲され降伏。中央戦区においても10万以上が捕虜となる大惨禍であった。

「総統閣下、我が軍の進撃は滑らかです。今年の夏までにモスクワに達する見込みです」
このハルダー参謀総長の楽観的が意見に代表されるようにジークフリート作戦の1段階はドイツ軍の圧勝に終った。

「ボルシェビキの終焉はもうすぐだ。この冬までに対ソ戦を終了させ英国を屈服させる」

スモレンスク、キエフ、レニングラード

ソ連軍はキエフ防衛をあきらめわずかな防衛部隊を除いて撤退。キエフは6月3日にドイツ軍の占領下となり市庁舎に鉤十字の旗が掲揚された。

「我が軍の進撃は好調なり。先鋒のSS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」がスモレンスクに突入。これを陥落せり。ハイル・ヒトラー」

この電報がグーデリアンより総統大本営に届けられたとき歓声が沸きあがった。ヒトラーは自らの名前を与えたSS師団がスモレンスクに一番最初に突入し奇襲によって陥落させたことに対し満腔の意を表明した。

「貴官の目覚しい働きに感謝する。遅滞無く進撃し一気にモスクワまで進撃せよ」
キエフが陥落している以上ドイツ軍に寄り道をする理由は無いのである。

北方戦区においてマインシュタイン将軍はレニングラードまでわずかの距離であるキンギセップまで進出した。ソ連は開戦前に手に入れた領土全てを失い更に国土を大きく侵食されていることとなった。

モスクワ!!!

全戦線に置いてドイツ軍の攻勢は続いていた。特に南方戦区においてはキエフで戦力を補充させた部隊が攻勢を開始。ボルガに向かっての進撃を開始したのである。

中央戦区においてはグーデリアンがモスクワまであとわずかのモジャイスクまで到達。
「敵首都前面まで到達せりも、敵の抵抗は軽微なり。我が軍の総力を振り絞ってモスクワに突入する予定なり。到達予定時間は8月6日なり。ハイル・ヒトラー」(グーデリアン)
「貴官の決断を支持する。赤の広場に鉤十字を掲揚せよ」(ヒトラー)

こうしてモスクワ前面の戦いが始まった。しかしグーデリアン将軍の報告どおりソ連軍はモスクワ前面での防衛をあきらめたようで一気にこれを占領した。

「総統大本営発表。8月6日グーデリアン将軍率いる第5装甲軍がモスクワに突入。勇敢な将軍の突進によりスターリン以下ソ連政府は首都を脱出。モスクワに鉤十字が掲揚された。」

翌日ヒトラーは最前線でもあるモスクワに移動。グーデリアン将軍と食事をともにしこう兵士の前で演説した。
「ドイツの勇者諸君。私は感謝する。君たちの勇気ある進撃に。スモレンスク奪取、モスクワ奪取は君たちの損害を恐れないその突進のたまものである。諸君こそドイツ軍の誇りであり、私の誇りである。ボルシェビキとの戦争はまだ続くが諸君の力によって必ずこの世界から共産主義の悪夢を取り払うことを誓う」
「ハイル・ヒトラー」

レニングラード

マインシュタイン将軍でもレニングラードの陥落には時間がかかった。3度にわたる総攻撃が必要だったのである。しかし9月23日にようやくレニングラードを抜いた途端北方戦区でも戦線が動き始めたのである。そくざにヒトラーは町の名前を「サンクトペテルスブルグ」と変えることを決定した。フィンランド半島の制圧が北部方面軍に命令された。

南方でもほぼ同時期にクリミア半島に進出。クリミア最大の要塞であるセバストポリの攻防戦が始まった。敵は若干3個師団。しかしドイツ軍も戦線の広がりから戦力が集中できずわずか9個師団での攻撃となった。

またオリョールにおいてもソ連軍と一進一退の戦闘が続いていた。

冬の始まり

クリミアでの戦闘は11月に完了した。セバルトポリ要塞は陥落。黒海の重要拠点はドイツ軍のものとなった。

しかし北方戦線では厳しい冬が始まっていた。フィンランド半島の制圧を目指していたドイツ軍は冬の到来によりこれ以上の進撃が出来ずにいたのである。ヒトラーは翌春の攻撃再開を行うためにフィンランド半島での攻勢を中止した。

北方戦区の戦況がほぼドイツ側に傾いたのと戦車戦に向かない森林地帯が多いためにマインシュタイン将軍は南方戦区に配置換えとなった。南方戦区ではまだまだ戦える気候のために更なる進撃が期待できるためである。

こうして1940年もドイツの成功の年として歴史に記憶されることとなった。


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Last-modified: 2008-02-11 (月) 00:00:00 (4144d)