枢軸

 「ヒトラーの収めた成果は第一次世界大戦後、連合国の政治家の錯誤と誤った政策によってもたらされたものであった。連合国の政治家達は、ヴェルサイユ条約と、ルール占領からミュンヘン交渉における譲歩と無定見に至るまで、あらゆる失敗を犯したのだ。前例のない政治的勝利により、ヒトラーはバランス感覚と判断力をまったく失ってしまった。ヒトラーは、ビスマルクの残した金言、すなわち『歴史は、安定した歩みを行うのがいかに難しいかを教えている』ことを忘れてしまったのだ。」(『ドイツ戦車軍団 下巻』フォン・メレンティン、朝日ソノラマ)

 だが、これは逆の命題を提起する。ヒトラーがこの空前の勝利に対してなお、理性的な判断力を維持していたら、英国の不屈の闘志を燃え上がらせる前に彼が目標とした対英米戦の勝利、東方生存圏の確保に成功したのではないだろうか。

 「最後の領土的要求」であるミュンヘン会談での合意が簡単に破られたことを知って、ネヴィル・チェンバレンは断固としてドイツに立ち向かう決意を固めた。また、イギリス国民も燃え上がる愛国心を持って答えた。これがバトルオブブリテンにおける究極的な勝利となったとチャーチル、及び『バトルオブブリテン−イギリスの空を守った戦い』において述べられている。

 もし、ヒトラーがミュンヘン協定をわずかながら尊重していたら、世界はどのように変わっていただろうか。これが本AARの趣旨である。

 ちなみに、これは私の初プレイであり、初心者が陥りやすいワナについても何らかの解決策を提示できるのではないかと考えている。

お詫び
 しばらく離れていたため更新が遅れておりました。お詫びいたします。

ミュンヘン以前

1936年 −防衛戦争の準備−

 開始と同時に歩兵師団の大量動員を開始。まず7個師団の連続生産を開始、続けて12月から2ライン10個師団の連続生産を開始。また、同時期にLv1軽戦車7個師団の連続生産を開始。

 ロストク、ペーネミュンデにロケット試験場を建設したこと、またゲーリングのヨタ話(「ドイツ国民は空から攻撃に対して安全でなければならないが、特にルール地方の防御は堅固でなければならない」)を信じてドルトムント、エッセン、ヴィルヘルムスハーフェンに対空施設を建設したこと、及び師団の改良にICを割り振ったことが師団数増加の阻害原因になったものと思われる。

 外交においてはベネズエラより100の石油、オランダ、スペイン国粋派から希少資源、アメリカ、アルゼンチン、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、オランダより資金を新たに外交協定によって入手。石油の話をする人は基本的に大歓迎である。

7月18日
 スペインの保守主義者、教会、軍は共和政府に対し反旗を翻し、武力クーデターに打って出た。これに対し民衆は銃を持って戦うことを要求し、1日に3回の政権交代の後についに民兵を中核とする武装組織を編成、スペインは内戦状態に突入した。

 ドイツがこの戦争に加担し、ファシズム政権を打ち建てることは当然であるが、これに軍事介入し、こっそりと実戦経験を積ませることは重要である。早速義勇軍の編成に取り掛かる。

 が、当事国と同盟中でなければ義勇軍は送れなかった。慌てて国粋派スペインにゴマをすって仲良くなろうとするが、同盟締結は容易でない。1936年はこうして暮れようとしていた。

1937年 −20世紀は石油の世紀である−

 ドイツはこの年に11個歩兵師団、1個装甲師団を編成する。研究は軽戦車、潜水艦、計算機を優先する。また、野砲、近接支援機、輸送機も開発を進めていた。目標はソ連に戦車で優越すること、イギリスには潜水艦による封鎖を可能にすることである。

 スペインに対する我が国の姿勢は、きわめてふらふらとした場当たり的なものであった。枢軸に引き込む魅力があまりないことを考えると、義勇軍の派遣のためのみに努力すべきか大いに考えるところがあった。それでも同盟締結への工作は続けていたが、熱心ではなかった。

6月2日
 盧溝橋付近で演習中の日本軍に何者かが発砲。翌日日本は国民党軍の篭る陣地を攻撃。日本政府は始め事件の沈静化を目指したが、直ぐに大規模な大陸派兵を決意。以後(史実では)9年間に及ぶ戦争の、これが始まりであった。

 我が国はその間物資の入手先を探していた。ベネズエラからの石油入手のために物資50を毎日輸出しており、また他国との貿易協定にほいほいと承諾した結果、物資生産に44のICを割いていた(代わりに石油は毎日142の黒字であり、10万を超える貯蔵量となった)。

 結果として、ドイツは国民党が生産していた物資を獲得するため貿易協定を締結することとした。が、まもなく破棄された。考えてみれば戦争中に物資の余剰など、まして放出などありえないわけで、当然といえば当然の帰結であった。

 12月16日
 基本型軽戦車の開発が終了した。基本型中戦車の開発も順調であり、史実より大幅な前倒しが期待されるだろう。

1938年 −大ドイツ−

 この年は歩兵34個師団、装甲2個師団、司令部1個師団を生産し終える。また、ライン工業地帯の要であるケルンは8対空、マンスターは7対空、ドイツ海軍の母港ウィルヘルムスハーフェンは6対空となった。これでゲーリングの約束も少しはらしく響くはずである。

1月17日
 売春の斡旋で捕まったけちなポン引きは国防軍お偉方のスキャンダルを握っているとばらした。国防軍のトップであったブロンベルグの妻が昔ヌード写真のモデルとなっていたのである。ヒトラー自身の態度は不明だが、ゲーリングとヒムラーにとっては国防軍を支配下に置く大チャンスであった。

 ナチ党お偉方の態度が気に入らないので後のフリッチュの件とまとめて却下しておく。ヒムラー、ゲーリングともども前線で戦っていただくことを事件の判決とした。

3月2日
 1936年8月の第一次モスクワ裁判から始まった「反逆罪」すなわちドイツと日本の共謀によるソヴィエト分割の支持、同盟、トロツキストとの協力、工業のサボタージュ、労働者の絶滅をたくらむ反乱勢力への粛清は、瞬く間にソヴィエト全土に広まり、1937年6月にはトハチェフスキーを始めとする赤軍幹部も次々と裁判にかけられていった、はずだった。
 
 が、ヨセフおじさんはいい人だった。「残忍な粛清は必要ない」と演説したのである。これはドイツにとって不吉なメッセージと思われた(が、後でその代わりに半端でない国民不満度の上昇があったことを知ると、どっちにしろ弱体化は避けられないらしい。むしろAIの行動を考えるとプラスかもしれない。

3月20日
 ついにアンシュルス、独墺合邦のときがやってきた。だが、花の進軍もグーデリアンの第2装甲師団の参加もない、ボタン一押しの味気ないものだった。だが、司令部師団×1、山岳師団×4は実に貴重である。ありがたく頂いておこう。

6月12日 
 内戦はフランコ派の勝利で終わった。当初の狙いは無と化したが、同盟に向けた外交攻勢は続けられた。7月12日、我が国はスペインと軍事同盟を締した。

6月14日
 デーニッツにより間接接近ドクトリンが完成した。我がドイツは潜水艦の暴風を大西洋中に吹きあらし、ブリテン島を枯死させるのだ。だが、正直完成までに時間がかかった。それもそのはず、本来39年に完成するはずの技術である。ドイツの乏しい海軍スキルでは1年近く掛かるのも無理ないと言えよう。以後、羹に懲りて膾を吹くがごとく、海軍ドクトリンの開発は後回しにされた。

9月30日
 「これが最後の領土的欲求である」。ミュンヘン会談の時がやってきた。外交で勝利を勝ち取る最後の機会である。クリック1回、ズデーデンラントは第三帝国の物となった。今や侵略戦争の準備を完了するまで西欧諸国を騙し続けることのみが使命となった。

12月21日
 ドイツに始めての軍隊輸送船が完成した。以後、プロイセンへの部隊のピストン輸送が続く。35年までどうやってプロイセンに部隊を配備していたのか、謎は残るがいいとしよう。

1939〜1941


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Last-modified: 2008-02-11 (月) 00:00:00 (3542d)