ドイツ 総統の夜の○夢

はじめに

1944年1月1日時点の主要国IC比較
国家名ドイツイギリスアメリカイタリアソ連日本中国
実効/基礎301/267159/106545/36399/71211/128176/101152/108
前年比+17-62±0±0±0+20+44

 傀儡政権樹立による国民不満度が低下してきたことでドイツのICが徐々に回復する。イギリスはインドを失ったことで大幅にICを減らした。その変わりにインドを支配している日本のICは増加した。中国は軍閥統一により一番の伸びを見せた。

1944年1月1日時点の枢軸国軍

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1944年1月1日時点の敵軍比較
国家名イギリスアメリカソ連中国
スパイ人数1010104
歩兵師団10159219324
機甲師団171230
戦闘機系302201
爆撃機系61120
戦艦192130
空母132300
巡洋戦艦3000
小型艦艇166188230

 ソ連が独ソ戦の敗北から立ち直りを見せる。アメリカは空母保有数をじわじわと増やしているが、陸軍の増強はそこまで進んでいない。中国はスパイ人数が少ないため全貌が見えないが数が多いことは判明している。そして空軍・海軍の増強を目指していることも合わせて判明した。

ドイツ陸軍司令官一覧

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 マンシュタインがついにスキル7に到達した。グデーリアン・ロンメルもかなり経験を積んでいるが、如何せん皆中将なのだ。これは昇進かもわからんね。

1月

1.4

 新年が明けてまもない4日、ベルリンの総統官邸に激震が走った。シベリア・ソ連国境沿いの前線部隊より送られてきた電信、それは紛れもないソ連の反攻を知らせるものであった。そして外務省がソ連から受け取った文書で、「我が国は貴国が傀儡政権を樹立したエストニアは我が国固有の領土であり、エストニアの独立を認めることはできない。ソ連はエストニアの解放を目指すものとする。これに抵抗する国家はすべて敵性とみなす。」という旨の内容が書かれていた。つまり、ソ連がここに来て謎の宣戦布告を行ったのだ。

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 このソ連の突発的な宣戦布告にドイツは大いに慌てた。ドイツ軍主力はフランスで休暇及び再編成中であり、ソ連国境沿いには僅かな守備隊(それでも20個師団が国境に配置されていた)しか配置していなかった。
 なぜドイツ軍がここまで警戒していなかったかというと、独ソ戦終了後にスタートしたベリヤ新体制率いるソ連はドイツに急接近していた。資源の積極的な供給によってドイツとの関係を修復し、新たな独ソ関係を築こうという姿勢がソ連にはあった。だが、実はその裏では臥薪嘗胆の思いで旧領の回復を狙って軍備を拡大していたということだ。独ソ戦時の旧態然としていたソ連軍は今では最新装備で固め、領土奪回に燃える士気軒昂の軍に変貌していた。ソ連軍は開戦と同時にドイツ領に進撃を開始した。

 ソ連軍はグリエフには24個師団、チカロフには32個師団を投入、国境線を防衛していたウクライナ軍を破ると、それを合図に雪崩を打ったように各方面から攻勢が始まった。

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 日本との連携を断つためにペルシア方面を制圧するとともに、ソ連領に戻っていたクリミア半島からもソ連軍が進撃、挟撃を狙った。一方のドイツ軍はトルコ戦役を早急に終結させるために虎の子の機甲師団10個を投入するとともに、フランスのドイツ軍主力を至急シベリアに派遣した。だが、ドイツ軍主力が到着する間にはソ連軍はキーロフにまで到達、ペルシアもそのほぼ全てがソ連軍の手に落ちていた。

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1.22

 ドイツ軍先遣部隊がキーロフ南西・チェボクサリに56個師団、チカロフ西部・ノヴォウゼンスクに30個師団到着した。ドイツ軍は独ソ戦の教訓として雪解け前までの積極的な行動は控えた。先遣部隊はすぐさま強固な防衛線を敷きソ連軍の勢いを止めることに成功した。反攻の主力となるドイツ軍93個師団はモスクワ東部・ヴラジミールに2月12日に到着予定となった。それまでに戦線を維持すれば勝機はこちらに訪れる。

第二次セヴァストポリ要塞攻略戦 1944.1.21〜1.24

 同時期、クリミア半島制圧作戦「黒い城」が発動され、ウクライナ軍を主力とする攻略部隊がソ連軍を1942年に実施された青作戦の激戦地セヴァストポリに押し込めることに成功した。だが補給が困難な状態にあってもソ連軍が誇る最新鋭戦車T-34/85の活躍によりウクライナ軍の攻撃を跳ね除け反撃を開始、逆にウクライナ軍をクリミア半島から追い出すことに成功する。
 このときの攻略部隊を指揮した将軍が元ソ連軍のブラソフ将軍というのは何かの因果であろうか。ウクライナ軍の攻撃が失敗したことでクリミア半島攻略は延期、援軍の到着を待つこととなった。

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2月

2.15

 こうした状況であっても総統は激怒こそすれ、動揺はしていなかった。ペルシアはともかくシベリアのソ連軍の西進を阻止することに成功したことで、最終的には戦局を逆転できると総統は確信していたからであった。だが、その確信は脆くも崩れ去った。中国国民党(以下中国)は、大陸統一を目指すため日本に宣戦を布告した。
 この突発的な宣戦布告の裏には中国とソ連、そして連合国との間に何らかの密約があった。極めて不利な戦局の打破を目指し、中ソが電撃的に枢軸国と戦闘状態に入ることで浮き足立ったところを攻略するというのがイギリス・アメリカの腹積もりであった。その見返りとして中国は満州地方・朝鮮の一部、ソ連はフィンランドと東独を得るというものであった。ソ連の実質的な連合入りにより、世界はここにきて枢軸と連合の二極化構造に進み始める。

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 ソ連軍との戦闘によりシベリアに軍を集中している日本軍は、華北の日本領にわずかな守備隊しか残していなかった。対する中国軍は同じ華北に少なくとも80個師団を投入し各地で日本軍を破った。
 また、中国軍はインド・ベトナム・ビルマへも大軍を持って侵攻を開始、わずかな兵で守る日本軍をいとも簡単に打ち破る。まさに破竹の勢いであった。日本は多方面での戦闘で苦戦を強いられるも、シベリアでは十分にソ連軍の牽制の役割を果たした。これが後々大きな影響を与えることとなる。

3月

3.1

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 長い戦いの後、ドイツが遂にトルコを下した。ドイツはこの地にオスマントルコを復活させ、強い求心力を得るためにケマル・パシャをあの世から引きずりだし、陸軍総司令官の要職に任じる。トルコ戦役にケリをつけたドイツ軍はその兵力をカスピ海沿岸のアストラハンに向ける。また、ノヴォウゼンスクから枢軸軍55個師団がウラリスクに進撃を開始、遂にドイツ軍が反撃の狼煙を上げた。

3.13

 大戦の行方を見守っていた中立諸国にも変化が出始める。ドイツがシベリアで優位に立ったことで、今まで日和見をしていたポルトガルも何らかのアクションを迫られていた。過去の事例、トルコやスイス、スペイン共和政府の件を見ても中立がいかに危険かということを既に察知していたポルトガル政府は枢軸同盟への参加を決断、総統はこれを快諾した。
 これによりポルトガルのアフリカ領からイギリスの背後を攻撃することができ、攻撃が不可能であるとしても連合国軍の分散が可能となる。それはエジプトで苦境に立っているイタリア軍の負担を減らすことができる、ドイツの唯一の策と言っても過言ではなかった。

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第三次セヴァストポリ要塞攻略戦 1944.3.18〜3.20

 弱体化していたセヴァストポリのソ連軍に対しハンガリー・ウクライナ連合軍が総攻撃を開始した。ソ連軍は補給物資の欠乏により一日の食事がパン50gにも満たず、医薬品も底を尽くなど絶望的な状況であった。稼動できる戦闘車両もほぼ無くなり、弾薬もわずかであった。だが、それでもソ連軍10万の将兵は不退転の決意でこの地を防衛した。

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両軍激戦の末、セヴァストポリ要塞に突入したのは戦闘開始から2日後の20日であった。ソ連軍の死傷者約6万人、そのほとんどが栄養欠乏や伝染病による病死であった。総統は両軍の健闘を讃え、この地に慰霊碑の建設を命令した。

3.19

 セヴァストポリで激戦が続くなか、トルコ戦役に投入されていた機甲師団がアストラハンに到着、ソ連軍に奪われたグリエフへ進撃を開始した。精鋭揃いのドイツ機甲師団の前には、いくら士気が高くても経験の浅い新兵ばかりのソ連軍では歯が立たなかった。グリエフはほどなくしてドイツ軍の手中に戻り、シベリア南部の主導権を取り返すことに成功した。

3.29

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 重要拠点・ナベレジヌイエチェルヌイ(長い名前だなぁ)の奪還のためドイツ軍12個師団が進撃を開始した。攻略部隊の指揮を執るのは、元フランス軍人でシリアに渡り、そして今ドイツ軍最前線部隊に転属されたカトルー大将。波乱万丈もここまでくると涙を誘う。母国を蹂躙した軍を指揮する彼の心中やいかに・・・・・・。

4月

4.9

 ドイツ軍の集中攻撃を受け早くも息切れ状態のソ連軍に対し、中国軍は日本の立てた傀儡国家・蒙古国を併合し、順調に駒を満州に進めていた。

4.19

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 19日、日本軍の抵抗空しく中国軍は遂に北京に入城した。中国人民はこの報に沸き立ち、進んで軍に協力を申し出る者も少なくなかった。また、日本軍に対するゲリラ活動もここにきて活発化し始めていた。日本軍は正念場に立たされた。シベリアの兵を動かせばソ連軍の侵入を許す。
 だが、シベリアに兵を貼り付けたままにしておくと満州・朝鮮が危うくなる。連日連夜の軍議が日本の軍部内で開かれることとなった。そして結論は現状維持、ソ連の降伏を待って中国軍を撃滅するというドイツ側が希望したものとなった。ドイツもこの決定を歓迎、元外相コンスタンティン・フォン・ノイラートを特使として日本に派遣し、日本軍への支援を確約した。

7月

 シベリア・アジア方面での戦闘が激化する中、アフリカでもイタリアと連合国軍の激戦が続いていた。一時期はスーダンまで進出しエチオピアを窺うほどの余裕があったイタリア軍もいつの間にかエジプトにまで連合国軍の侵入を許していた。ドイツは貴重な航空戦力の一部をアフリカに割くなど、最大限の支援を行った。
 だがそれでもイタリア軍は各地で敗退を続けることとなる。またイタリア軍は小国オマーンの攻略にも失敗するなど失態が続いていた。ドイツ軍内でも今回の件でイタリア不要論が相次ぐなど、イタリア軍の評判はさっぱりであった。

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7.15

 そんな中、ドイツ軍機甲師団がチャルジャウを占領、ソ連本国とペルシアの補給線を断つことに成功した。ドイツはこの地にトルクメニスタンを建国、ソ連からの独立を約束するという明確なアピールをソ連内の各民族に見せた。

9月

9.12

 長い交渉の末にアフガニスタンが枢軸同盟への参加を決断した。中央アジアのパワーバランスはこれにより枢軸側に傾くことになる。中国・イギリスへの強い牽制が期待でき、またインドの日本軍へも支援が可能となった。だが、その日本軍がなんとか持ちこたえていたビルマの防衛線も遂に綻びはじめる。

9.24

 中国軍は遂にインド東部の要衝カルカッタの目前まで迫っていた。既にダッカの日本軍は敗退中で、地続きとなっていたインドとビルマ・インドシナが分断される危険性が限りなく高くなった。海軍大国であるとはいえアメリカ海軍により輸送能力が制限されている日本にインドを支えきれるかどうかは不透明な情勢となった。
 ドイツも航空部隊を差し向けて何とか中国軍の連携を乱そうとするも、圧倒的な数で押す中国軍の前にはあまりに数が足りなかった。この時点ではペルシアの連合国軍も健在でありドイツ陸軍の派遣は当然不可能であった。

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10月

10.6

 しかし、敗北が続く日本軍もシベリア方面では優勢を誇った。共産国モンゴルの併合を皮切りに、ソ連工業地帯イルクーツクも占領するなど大いにドイツ軍の作戦行動をアシストした。第二次独ソ戦は日本軍無しでは語れないものとなるであろう。だが、この時すでに中国軍は満州首都・新京の目前まで進出していた。

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10.23

 ドイツ軍が遂にソ連の首都ノヴォシビルスクに突入した。ドイツ軍の圧倒的な兵力によりソ連軍防衛部隊は瓦解、敗走を開始した。ソ連指導部はパヴロダールへと逃れた。シベリア工業地帯の中心が陥落したことで第二次独ソ戦はほぼ決した格好となった。

10.26

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 ドイツ航空部隊が中国軍南方経略部隊の本隊を発見、これを爆撃した。その本隊を率いる敵将の名前は、「ヘ・インキン」屁・陰金?汚い名前だなぁ。それにしても兵站持ちのスキル3元帥とはこれまた中国には少々ハイスペックな人材ではなかろうか。ドイツは喜んであなたの亡命を受け付けています。

12月

12.10

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 対ソ戦が掃討戦に移ったことで余裕ができたドイツはアルメニアの独立を許可した。政権の閣僚を見ると、外務大臣が「ロマノス神父」などという胡散臭い奴になっていた。その人物の特徴が「軍または政党で経験を積んだ人物」「弱肉強食の論理が世界を支配」していると考えており、「時には野蛮な性格をあらわにし」「反社会的な手段を用いること」を厭わない、「一片の情けも無い」人物らしい。

どんな神父だよ・・・・・・。

12.15

 日本軍がタンヌ・トゥヴァも併合することに成功した。満州でも僅かながらに中国軍を押し返し、新京陥落の危機は当面のところ無くなった。だが中国軍は遂にインド洋に到達、インドとの陸路が塞がれてしまう。日本軍の苦境は未だ終わることを知らない。

12.27

 ソ連最後のVP、アングチカに進撃中のドイツ軍50個師団が、戦車1個師団のソ連軍に撃退される。長期の行軍によりドイツ軍将兵の体力・精神力はすでに限界を迎えていた。ドイツ軍は一旦、進撃を停止させ態勢の立て直しを開始した。だが、今更抵抗したところで、もはや死に体のソ連に明日は無かった。枢軸と連合の激戦は、その熱気を伴ったまま新しい年へとそのステージを移す・・・・・・。

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〜つづく〜


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Last-modified: 2008-02-12 (火) 00:00:00 (3541d)