ドイツ 総統の夜の○夢

はじめに

1952年1月1日時点の主要国IC比較
国家名ドイツイギリスアメリカイタリア日本中国
実効/基礎499/37710/7258/166106/71200/108156/92

 うわあ、これは決定的ですね。なんだこの国力差は・・・たまげたなぁ。

1952年1月1日時点での各国の陸海空軍一覧

国家名/兵種歩兵騎兵自動車化機械化軽戦車戦車空挺兵海兵山岳兵守備隊司令部民兵合計
ドイツ1780101020684120110358
イタリア139620014103335213248
日本139000070445621204
ハンガリー171620014001000161
イギリス109011010010022125
アメリカ14098012060103365


国家名/兵種空母軽空母戦艦巡洋戦艦重巡洋艦軽巡洋艦駆逐艦隊潜水艦原潜輸送艦合計
アメリカ1071001821597022154
ドイツ96009570075111


国家名/兵種戦闘機迎撃機近接航空支援戦略爆撃機戦術爆撃機海軍爆撃機輸送機飛行爆弾ロケット合計
ドイツ16111503526902117
イタリア1230012210048
アメリカ3150512100045



 日本&中国の軍隊は便利なツールによりお亡くなりになりました。本当にありがとうございました。てか、削除して1年たらずで歩兵130ですか。日帝・・・・・・恐ろしい子!

1月

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ミュンヘン会談 1952.1.18〜1.25

 ドイツ・ミュンヘンで枢軸各国の代表・要人が一同に会し、国際連盟に代わる新たな国際機関「国際連合」の設立に向けた詰めの協議が行われていた。国際連盟の欠点を「強制的な指導力の欠如」と位置づけ、新しい国際連合ではドイツ・イタリア・日本・ハンガリー・スペインの5カ国が安全保障理事会の常任理事国となり世界各国の行政・経済・軍事をリードするという方式をとった。非常任理事国にはルーマニア・フィンランド・イラク・中国が5年1期で就くこととなった。ルーマニアは常任理事国のポストを強く要求していたが、ハンガリーの強硬な反対や大戦への参戦の遅れが響いた。
 また、オブザーバーとしてアメリカのアメリカナチス党のフリッツ・クーン、ジョージ・ロックウェルらも参加した。総統はドイツによるアメリカの直接統治を望んではおらず、クーンらナチス党による傀儡政権による支配を考えていた。これはアメリカの維持にかかる資金・物資・人員が天文学的なものになると考えられていたからだ。アメリカ国民が反政府に傾いていることは前回のレポートでお伝えしたが、だからといって親ドイツというわけではなく、むしろドイツ軍に対する反抗のほうが根強かった。すでにドイツはニューヨークやフィラデルフィアなどといった大都市の統治をアメリカナチス党による、新しい「アメリカ合衆国」に引き継いでおり、行政権限委譲は着々と行われていた。

 総統は枢軸各国が分担して「アメリカ合衆国」に多額の財政・軍事援助を与えることを協議で提案した。これには反発も大きかった。長引く戦争によって、いくつかの枢軸国は少なからぬ財政赤字を抱えており、とても他国に援助できる余裕はなかった。それに対してクーンはアメリカ国内での経済活動に対し、負担をした国の企業に対する非課税や資源の提供などを見返りとして提案した。アメリカでの自由な経済活動はまさに「アメリカン・ドリーム」の再来を各国首脳に印象付けた。このクーンの譲歩案によってアメリカ支援策は大筋で合意された。ドイツが援助資金・物資の全体のうち40%を負担、スペインが15%、ハンガリー9%、日本・ルーマニア6%などとなった。イタリアは財政赤字・国内の政情不安などを理由に負担を拒否するなど新しい国際機関の船出は厳しいものとなっていた。
 また、今回の協議で改めてアメリカ・イギリスその他連合国各国に対する降伏勧告案が採決された。以上の内容を盛り込んだ、いわゆる「ミュンヘン宣言」の共同発表により会談は終了、戦後世界の始まりは既にそこまできていた。

4月

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 アメリカはアッシュヴィルで抵抗を続けていた。国民を強制的に動員し反攻の機会を狙っていたが、アメリカの敗戦は覆しがたいものとなっていた。そんな中、ドイツが北アフリカの連合軍根拠地・ファイユーム基地に核ミサイルを投下し現地の連合国軍は大損害を受け撤退する。この核ミサイル投下により膠着状態にあった北アフリカ戦線は動き、アレクサンドリア付近から連合国軍が駆逐された。

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 北アフリカ戦線の破綻によりイギリスが受けた衝撃は大きく、もはや形勢逆転は不可能と判断し中立国スウェーデンに水面下で接触、ドイツとの和平交渉に応じるようになった。しかし領土割譲を巡り交渉は暗礁に乗り上げる。あくまでも全植民地の割譲を求めるドイツと部分的割譲に留めたいイギリスとの駆け引きは長期間によって行われたが、事態は急展開を迎える。

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 アメリカがドイツに降伏した。アメリカ主要部の占領に成功したドイツはアッシュヴィルで拘束したトルーマンに、全行政権限をドイツに委譲するよう要求、これにはトルーマンも応じざるを得ず、アメリカ政府はドイツとの単独和平条約に調印した。一部のアメリカの海外領土では反発があったものの粛々と権利移植は進み、4月11日、クーン政権が正式に発足した。この報に驚いたイギリスは態度を軟化させた。交渉は完全にドイツペースで進み、5月20日、スウェーデン・ストックホルムで枢軸国と連合国との間で和平条約が締結された。イギリスはイングランド地方のみに領土を削減され、軍備も制限されるなど屈辱的な講和条件であった。

 ここに第二次世界大戦は枢軸国の勝利で幕を閉じた。長き戦いから解放されたドイツの戦士たちは最大限の祝福を受け凱旋した。だが、パクス・ゲルマニカの前途は多難を極めた。

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1956年7月

 第二次世界大戦が終結し4年目の1956年、世界は盟主ドイツのもと、新スタートを切っていた。国際連合が正式に設立され、ドイツ・フランクフルトに国連本部が建設された。国連には41カ国が参加し、年々加盟国は増加していった。また、国連とは別にベルリン条約に基づいた軍事同盟機構「ベルリン条約機構」が結成され、世界に枢軸国の団結をアピールした。国連の主要国であるドイツ、イタリア、日本などは互いの権益を主張しあうなど衝突が激しくなるものの、戦後初めての平和の祭典・夏季オリンピックが東京で開催されるなど、確実に平和は訪れつつあった。だが、歴史の歯車は彼の死と共に狂いだした。

 1956年7月22日、必死の治療も実らずドイツ総統、アドルフ・ヒトラーはこの世を去る。享年67であった。総統の死による影響は計り知れないものがあった。総統は絶対的なカリスマでドイツのみならず世界をも支配していた。その彼がこの世を去ったことで、総統の肝いりで設立された国連は求心力を失い、組織としての機能をほぼ停止させてしまった。アジアへの更なる権益の拡大を声だかに標榜する日本は、戦火から復興したクーン政権率いるアメリカと意見の衝突を繰り返すなど枢軸陣営はその内部から瓦解していった。

1958年1月

 世界に暗雲が立ち込める中、イタリアのムッソリーニが病死すると事態は更に悪化した。第二次大戦によって深刻な財政赤字を抱えていたイタリアは、その後も失政が続き、経済は低迷を続け、失業率は30%にまで悪化していた。それでも絶対的な権力を持つムッソリーニが存命中は大きな混乱が見られなかったが、彼の死後は公然とイタリア国民は各地で反政府活動を展開した。ムッソリーニの後継としてイタリア首相に就任したアントニオ・セーニは反政府運動を弾圧、「ローマの悲劇」では治安出動した軍によって1000人以上の市民が射殺、逮捕者は数千人にものぼった。
 
 1958年1月9日、ジュリアーノ・ラファエリ中将のクーデターによってセーニ政権は崩壊すると、ゲーリングの死後に首相の座に就いたドイツのキージンガーはBTO(ベルリン条約機構)軍を出動させ、ラファエリの暫定政権を攻撃、鎮圧した。だが、このドイツの介入にイタリア国民は無論、日本・スペイン・トルコなど32カ国がドイツと鎮圧に加担したアメリカを非難する決議案を国連に共同提出した。この非難決議案はドイツの拒否権行使によって否決されたものの、もはや枢軸同盟の破綻は明らかであった。

1966年8月

 国内の矛盾の高まりによって国民からの支持を失いつつあったキージンガー政権はナチス党の解党を指示し、民主的な政体作りを目指した。だが、この動きにドイツ国防軍は強硬に反対した。しかしキージンガーは民主化を断行した。これによって共和制が復活し、軍人の政治介入を禁じたことで本格的な政党政治が始まった。
 1966年8月3日、共和制復活後初めての首相選挙に立候補していたキージンガーは遊説先のドレスデンで元国防軍軍人の手によって暗殺された。この事件によってドイツ国内の混乱はピークに達した。首相選挙は非ナチス党員であったヴィリー・ブラントが勝利し、ナチスによるドイツの支配は名実ともに終わりを告げた。ブラントはBTOの解散を提案し、フランス領土をアフリカフランス政権に委譲、海外植民地の解放を進めるなど「小ドイツ主義」政策を次々と断行、国連優先主義を掲げ国連そのものの立て直しを図った。ブラントは後にヨーロッパ経済共同体(ECC)の設立を提案、これまでの枢軸陣営の西欧諸国の他に敗戦国のイギリス・フランスをも加えた国家連合体が生まれた。これは枢軸各国との決別を図るものであった。1967年、ノルウェー・オスロにおいて枢軸各国首脳が会談を開き、枢軸陣営の発展的解散を確認した(オスロ合意)。

1975年2月

 1975年、日本はヨーロッパ経済共同体(ECC)に対抗して東アジア共同圏(SEAC)を設立、未だにナチス党による一党独裁政治が続いていたアメリカも1977年、西大西洋条約機構(WATO)を設立し、ナチス勢力が強いカナダ・中南米諸国と政治的・経済的・軍事的連携を強化することを決定した(ボゴタ会議)。世界は枢軸同盟による一極支配構造から急速にブロック化へと進んでいった。

1979年5月

 ドイツ領ペルシア・テヘランにおいて軍事クーデターが勃発、反ドイツ運動の指導者ルーホッラー・ホメイニーはイスラム革命評議会を組織し、一方的にイラン・イスラム共和国の独立を宣言した。ブラントに代わり、ヘルムート・シュミットが首相となっていたドイツはイランを激しく批判、国連決議を経ずにイランに軍を派遣した(ペルシア戦争)。しかし、日本の支援を受けたイランは粘り強い抵抗を続け、戦争は泥沼化する。その後もドイツ軍はイランへ増派を繰り返すも、アメリカや、個別にドイツと軍事同盟を結んでいた中央アジア諸国までもがドイツに対し非難し始めた。重い財政負担と国際的な非難の高まりによってドイツは1983年にイランから撤退、ドイツがイラン南部に立てたパフラヴィー政権も国民の信頼を勝ち取ることができず、1984年にアバダンの陥落と共に滅亡、イランは国内の統一を果たした。

1987年6月

 日本の植民地であったパキスタンで分離独立運動が発生すると、日本は軍を派遣しこれを鎮圧しようとした(パキスタン介入)。イランの独立は各地の植民地に飛び火しつつあり、パキスタンやインド・ビルマなどでもその動きが活発化していた。親日と見られていたイランは独立運動の支援に回り、中央アジア諸国もこれに習った。イランはこの機に乗じてアジア・イスラム大評議会を設立し、中央アジアでのリーダー的存在となった。これに対し日本では国内の民主化運動の高まりによって、宇野宗佑内閣は総辞職するなど政治は混乱を極めた。
 結果として、1988年、日本はパキスタンの独立を承認し、インド・ビルマ・インドネシアに自治権を与えた。その後宇野の後を継いだ中曽根康弘は自身が総裁を勤める与党民生党と野党第一党の社会民主党による連立政権の首相となり、ドイツの例を倣い「小日本主義」を目指し、財政を圧迫していた軍備の縮小を図った。

1989年5月

 世界三大国、ドイツ・アメリカ・日本による共同首脳会談がオランダ・ロッテルダムで行われ、外交関係の改善と経済交流の促進などを目指すことなどを盛り込んだロッテルダム宣言が共同で発せられた。これはヒトラー総統死後から続いていた冷戦へ終止符を打つ第一歩とされ、交渉が停滞していた中・長距離核弾頭制限条約が同じく締結されるなど融和ムードが広がった。ドイツでは長らく政権与党を担当してきた民主労働党が総選挙で敗北、ドイツ社会民主党が第一党となり、ドイツは一つの区切りを迎えた。
 ナチス党による独裁が続くアメリカでも、政治的権限が制限されてはいたものの国民議会が設置され、1990年の議会選挙では民主党は共和党を破るなど民主化は確実に進んでいった。

2000年〜

 1994年に起こった世界大恐慌によって独・米・日による三極構造が崩壊、アジア・アフリカなどを中心に紛争が勃発するなど混乱が見られた。特に南米では独裁政権が次々に崩壊していき、経済は停滞し、政情は常に不安定にあった。そんな中、ドイツは国連が中心になって進める復興プログラム「ツァイト・プラン」を提案した。各国が分担し国際開発援助銀行を設立し、無利子での資金貸与によって世界秩序の回復に努めようとした。ツァイト・プランによって2000年代に入りようやく恐慌は収束を迎え、世界各国では国連優先主義が台頭した。

 2005年、国際連合は発展的解散、新たに国際連邦機構が設立された。これにより世界の政治・経済・軍事問題は国際連邦機構によって一括して管理され、一部の国では反発があったものの、国家という枠組みを越えた国際交流は人類に恒久の平和と多大な利益を与えた。2015年、トラテロルコ条約に基づき、超越的な統治機関「地球連邦」が設立された。国家は地方自治体という扱いとなり、人種・宗教・国家に偏らない政治を目指した。初代地球連邦大統領に就任したボリビアのエドゥアルド・ホセ・ヒスベルトは経済の地域格差の解消に向けた政策「ネクスト・フェーズ」を提唱、人類は次の段階へと進もうとしていた。

 総統が亡くなって半世紀が過ぎようとしていた。彼の評価は今現在でも定まっていない。世界統一を成し遂げた英雄と評する者もいれば、狂気の悪魔と蔑む者もいる。だが、彼が人類史に及ぼした影響は一過性のものではない。結果として人類は結束の道を選んだ。二度とあの戦争を起こさないために・・・・・・。





 今、総統はどこで眠っているのだろうか。そして、今、どんな夢を見ているのだろうか。



〜おわり〜







あとがき

 なげーよw俺なに書いてんだよ。後半AARちゃうやん。でも書きたかったんです。妄想がたらたら出てきたんで、バッー!と書いちゃいました。ちなみに作者の執筆スタイルは、基本的に1本を1日で仕上げるという感じなので、この文章1日で書いてたんですね。今の今まで。アホやなぁ。今日(2月11日)建国記念日だぞ・・・。

 まあ、そういうことで完結しました。もう文章系はいいです。マジメ系もいいです。って、結構いろいろなネタ仕込んでますがそこはスルーの方向で。次回作は対話式に戻します。だって書くの楽だもんw







 それでは次回作でお会いしましょう。さようなら。そして、しゃぶれよ。




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Last-modified: 2008-02-12 (火) 00:00:00 (3541d)